『月々日々に――池田先生の折々の言葉』
「力あらば一文一句なりともかたらせ給う
べし」。民衆の真実の声が轟くところ
必ず「立正安国」の夜明けが開かれる。
新1793・全1361
※『随筆 民衆凱歌の大行進』を基にしています。
『寸鉄』
心広々と勇敢に自分らし
く生き抜け―戸田先生。
偉大な人間革命の道を!
◇
「善き友を持つことが、仏
道修行の全て」仏典。広布
の同志と異体同心の前進
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感謝の気持ちが強い人程
長生きの傾向に―研究。
共に報恩の人生を潑剌と
「聖教新聞」より
(感想)
どうして「善き友を持つことが、仏道修行の全て」なのか、考えてみました。そもそも仏道修行というと難行苦行で、努力をするからさとりを開けると考えている人が多いと思います。その修行を「善き友を持つこと」とされたのは、善き友を持つためには、そのレベルでの会話ができなければ互いの善き友にはなれないので、学ぶことが必要です。また、もし友になりたい人が、自分の考え方を受け入れてもらえないようなら、その人に理解してもらえるように対話をする必要があります。対話をするためには、自分が自分の考えを深く理解していないとできません。一見、適当に当たり障りのない会話ができれば、善き友なれたと思う人もいるかもしれませんが、それでは本当の意味での善き友ではないと思います。良き友になるためには、深い思索やさまざまな方法による努力が必要だと思います。そのように考えると、「善き友を持つ」ための方法や思索が、「仏道修行の全て」につながっていることがわかり、「仏道修行の全て」が「善き友を持つこと」にもつながっていることが分かります。
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